■ブロンテ姉妹の紹介

■ブロンテ姉妹とは
シャーロット・ブロンテ(Charlotte Brontё,1816.4.21-1855.3.31)、エミリ・ブロンテ(Emily Brontё,1818.7.30-1848.12.19)、アン・ブロンテ(Anne Brontё, 1820.1.17-1849.5.28)の三姉妹は、ヴィクトリア朝時代のイギリスに登場したイギリス文学史を代表する女流小説家です。三人とも夭逝のため決して多くの作品を残したわけではありませんが、本国イギリスのみならず日本でも人気の高い作家です。「ブロンテ姉妹」と聞いてピンとこない方でも、シャーロットの『ジェイン・エア』(Jane Eyre,1847)やエミリの『嵐が丘』(Wuthering Heights,1847)を一度は読んだことがあるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

父パトリック・ブロンテ(Patrick Brontё)が牧師をつとめていたウェスト・ヨークシャーのハワース(Haworth)にあるヒースの茂る原野に囲まれた牧師館で、三姉妹とそのきょうだいのブランウェル(Patrick Branwell Brontё,1817-48)は幼い頃から物語や雑誌を作って遊んでいました。「グラスタウン(Glass Town)物語」、シャーロットとブランウェルの合作「アングリア(Angria)物語」、エミリとアンの合作「ゴンダル(Gondal)」といった初期作品は三姉妹の原点といえます。
1846年長姉シャーロットが中心となり、三姉妹はカラー(シャーロット)、エリス(エミリ)、アクトン(アン)・ベルという筆名で『カラー、エリス、アクトン・ベル詩集』(Poems by Currer, Ellis and Acton Bell)を自費出版しますが失敗に終わります。しかし翌1847年10月、カラー・ベルの名で出版されたシャーロットの『ジェイン・エア』は大好評を博し、その数週間後には『ジェイン・エア』の入稿以前に初校が済んでいたとされるエミリの『嵐が丘』とアンの『アグネス・グレイ』(Agnes Grey)が三巻本として出版されました。
しかし喜びもつかの間、1848年9月にはブランウェルが、12月にはエミリが、そして翌1849年5月にはアンが相次いでこの世を去ります。生前、アンは第二作『ワイルドフェル・ホールの住人』(The Tenant of Wildfell Hall, 1848)を出版しています。
父とともに残されたシャーロットは失意の中も執筆を続け、1849年に『シャーリー』(Shirley)、1853年に『ヴィレット』(Villette)を出版しましたが、着手しはじめたばかりの小説「エマ(Emma)」(1860年未完原稿発表)を残し1855年3月、38歳の若さでこの世を去りました。なお、シャーロットの死後1857年に、1845−46年に執筆された第一作目となる長編小説『教授』(The Professor)が出版されています。

小説の全盛期ともいえるヴィクトリア朝時代を代表する作家として、三姉妹そろって今日に至るまでその名が知られていることは非常に希有なことであり、それはまた三姉妹の残した作品の質の高さを物語っているともいえるでしょう。

ブロンテ姉妹の研究は日本でも盛んで、すでにたくさんの研究書が出ていますが、ブロンテ三姉妹の入門書としては『ブロンテ姉妹を学ぶ人のために』(中岡洋/内田能嗣編、世界思想社、2005)がおすすめです。巻末の「書誌」にはブロンテ姉妹に関する参考文献(欧文、和文)が多数挙げられており、レポートや卒業論文等でブロンテ姉妹を扱う予定の方には大変有益です。ほかにも、ケンブリッジ大学出版局のThe Cambridge Companion to the Brontёs(2002)、オックスフォード大学出版局のThe Oxford Companion to the Brontёs(2003)などがあります。また、『ジェイン・エア』、『ヴィレット』、『嵐が丘』の三作はPalgrave Macmillan社からNew Casebooksシリーズが出版されており、各作品に関する代表的な論文の抜粋を読むことができるほか、巻末の"Further Reading"も参考文献の収集に役立つでしょう。

 
■ブロンテ姉妹関連年譜
西 暦
日 付
年    譜
1777
3月17日 父パトリック・ブロンテ、誕生
1783
4月15日 母マリア・ブランウェル、誕生
1802
10月1日 パトリック、聖職者になるためにケンブリッジ大学セント・ジョンズ・コレッジに入学
1806
10月 パトリック、エセックス州ウェザーズフィールドの助任司祭に就任
1811
3月3日 パトリック、ヨークシャー州ハーツヘッド=カム=クリフトンの終身助任司祭に転任
1812
4月11日 パトリックの教区内で、ラダイトたちがウィリアム・カートライトのローフォウルズ・ミルを襲撃
7月 パトリック、リーズ近郊のウッドハウス・グローヴ・スクールで古典の試験官になり、そこでマリアと知り合う
12月29日 パトリックとマリア、リーズ近郊のガイズリーの教会で結婚
1814
(おそらく)1月 長女マリア誕生
1815
2月8日 次女エリザベス誕生
5月19日 パトリック、ソーントンの終身助任司祭に転任
1816
4月21日 三女シャーロット誕生
1817
6月26日 長男ブランウェル誕生
1818
7月30日 四女エミリ誕生
1820
1月17日 五女アン誕生
4月10〜20日の間 パトリック、ハワースの終身助任司祭になり、ブロンテ一家、ハワースに引越
1821
5月上旬 母マリアが病床に臥し、マリアの姉エリザベス・ブランウェルがペンザンスから看病のため到着。以後ブロンテ一家の一員として暮らす
9月15日 母マリア、癌により死去(享年38歳)
1824
7月21日 長女マリアとエリザベス、カウアン・ブリッジにあるクラージー・ドーターズ・スクールに入学
8月10日 シャーロット、カウアン・ブリッジに入学
11月25日 エミリ、カウアン・ブリッジに入学
1825
2月14日 長女マリア、病気のためカウアン・ブリッジを退学
5月6日 長女マリア、結核により死去(享年11歳)
6月1日 パトリック、娘たちの病気を案じ、シャーロットとエミリをカウアン・ブリッジから退学させる
6月15日 エリザベス、結核により死去(享年10歳)
6月5日 パトリック、ブランウェルへの土産として、リーズから12体の木製兵隊人形を持ち帰る。ブランウェルと三姉妹はこれらの兵隊を主人公にして、「アングリア」をはじめ、シャーロットが23歳となる1839年まで膨大な初期作品を生み出していく
1826
1月17日 シャーロット、デューズベリー近郊のマーフィールドの、マーガレット・ウラー女史が経営するロウ・ヘッド・スクールに入学。ここで、生涯の友、エレン・ナッシーとメアリ・テイラーに出会う
1834?35
7月29日 シャーロット、教師としてロウ・ヘッド・スクールに赴任(〜1838年12月まで)。エミリは生徒としてロウ・ヘッド・スクールに入学
1835
10月末 エミリ、体調を崩し、ロウ・ヘッドを去り、代わりに、アンが同校に入学
1838
9月下旬 エミリ、ハリファックス近郊サザラムにあるロー・ヒル校に音楽の教師として赴任(〜1838年3月まで)
1839
4月8日 アン、マーフィールド近郊の、ブレイク・ホールのインガム家のガヴァネスになる(〜12月まで)
5月 シャーロット、スキプトン近郊の、ストーンギャップのシジウィック家のガヴァネスになる(〜7月まで)
8月19日 ウィリアム・ウェイトマン、ハワース教会の助任司祭になる
12月31日 ブランウェル、湖水地方ブロートン=イン=ファーネスの、ポスルスウェイト家の家庭教師になる(〜1840年6月まで)
1840
5月8日 アン、ヨーク近郊、ソープ・グリーン・ホールのロビンソン家のガヴァネスになる(〜1845年6月まで)
10月5日 ブランウェル、リーズ・アンド・マンチェスター鉄道のサワービー・ブリッジ駅の駅員になる
1841
3月2日 シャーロット、ブラッドフォード近郊のロードンにあるアッパー・ウッド・ハウスのホワイト家のガヴァネスになる(〜12月まで)
4月1日 ブランウェル、ラデンデン・フット駅の主任事務員に昇進。
1842
2月15日 シャーロットとエミリ、ブリュッセル旧市街イザベル通りのエジェ寄宿女学院に生徒として入学
3月4日 ブランウェル、使途不明金の責任を問われ、リーズ・アンド・マンチェスター鉄道を解雇される
8月 シャーロットとエミリ、エジェ寄宿女学院で教師として働き学費を免除され、生徒兼教師になる
9月6日 ウィリアム・ウェイトマン、コレラで死去(享年28歳)
10月29日 ブランウェル伯母死去(享年66歳)
11月8日 シャーロットとエミリ、ハワースに帰国
1843
1月 ブランウェル、アンの紹介でソープ・グリーン・ホールの、ロビンソン家の家庭教師になる(〜1845年7月まで)
1月27日 シャーロット、単身で再びブリュッセルのエジェ塾へ赴くが、年末には退学
1844
1月3日 シャーロット、フランス語の教員免許取得後、ハワースに帰宅
8月 シャーロット、姉妹でハワースにて学校開設を目指すが、生徒が集まらなかったため10月に断念
1845
5月25日 アーサー・ベル・ニコルズ、ハワース教会の助任司祭になる
10月 シャーロット、エミリとアンの詩稿を見て、詩集の出版を計画
1846
5月 『カラー、エリス、アクトン・ベル詩集』出版
1847
7月 トマス・コートリー・ニュービー社、『嵐が丘』、『アグネス・グレイ』の出版を承諾
8月6日 スミス・エルダー社、『教授』の出版を断る
8月24日 シャーロット、『ジェイン・エア』をスミス・エルダー社に送る
10月19日 『ジェイン・エア』、「カラー・ベル」の匿名でスミス・エルダー社から出版される
12月上旬 『嵐が丘』、『アグネス・グレイ』、トマス・コートリー・ニュービー社から出版
1848
6月 『ワイルドフェル・ホールの住人』、ニュービー社から出版
9月24日 ブランウェル死去(享年31歳)
12月19日 エミリ死去(享年30歳)
1849
5月28日 アン、スカーバラで死去(享年29歳)
10月26日 『シャーリー』、スミス・エルダー社から出版
1850
8月 シャーロット、湖水地方、ウィンダミアのブライアリー・クロースにシャトルワース夫妻を訪ね、ギャスケル夫人と出会う
1853
1月 『ヴィレット』、スミス・エルダー社から出版
1854
6月29日 シャーロットとニコルズ、ハワース教会で結婚
1854
3月31日 シャーロット死去(享年38歳)
1857
3月25日 ギャスケル夫人、『シャーロット・ブロンテの生涯』をスミス・エルダー社から出版
6月6日 『教授』、(シャーロットの)死後出版
1860
4月 『エマ』未完のまま、「コーンヒル・マガジン」に掲載
1861
6月7日 パトリック死去(享年84歳)
 
以 上